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日本リーグの試合前に笑顔を見せる=埼玉県戸田市
小さな手に初めてグラブをはめた。自宅近くの海岸で、ボールをとってみた。キャッチボールする2人の兄のようになりたかった。 90年、西山麗(にしやまれい)(25)が小学校に入ったばかりのころだ。父の義信(よしのぶ)(67)は振り返る。
「どんなゴロも、グラブに自然とボールが入っていく。この子はすごいなあと思った」 ソフトボール日本代表として金メダルをとるとは、そのとき想像できるはずもない。ただ、ボール遊びが好きな娘がかわいかった。
「なんでうちの子だけ」
西山は5歳の時、慶応大学病院(東京都新宿区)で「大動脈弁狭窄(きょうさく)兼閉鎖不全症」と診断された。生後1カ月の検診で心雑音を指摘され、通っていた病院の医師から、「学校に上がる前に」と検査入院を勧められた。
大動脈弁は、左心室から大動脈に血液を送り出す時に開き、すぐに閉じて逆流を防ぐ。西山は弁が十分開かず、血液がうまく流れなかった。普通は弁の前後で圧力差はないが、40ミリ水銀柱あった。血液を何とか押し出そうとするため、左心室の内圧が高かった。 手術の目安となる50ミリ水銀柱には達していなかったが、弁は成長とともに硬くなって、ますます開きにくくなる。心筋が厚くなり、胸痛や失神を起こす恐れがあった。突然死の危険性も伝えられた。「将来的には手術が必要」と言われた。
小学2年になった西山はミニバスケットを始めた。体のことは両親から聞いていたが、「練習量を自分で考えるなら」と許してもらった。「例えば、みんながダッシュを10本やるなら、5本にした」。激しい運動を控えるよう言われていたので、主治医の石原淳(いしはらじゅん)(現・横浜市立市民病院)には内緒にした。 ただ、義信は「中学ではソフトボールがいいのでは」と思っていた。攻撃時、自打席以外は休め、体の負担が少ないと考えた。 神奈川県横須賀市立常葉中に入学した96年春。両親は女子ソフトボール部顧問の畦地隆弘(あぜちたかひろ)(49)=現・野比中=と石原を訪れ、相談した。だが、石原は認めなかった。「何を考えているんですか」
(由利英明)

中学時代の恩師、畦地隆弘さん(左)と北京で(提供写真)
激しい運動を医師から控えるように言われた西山麗(25)が、中学で部活動をするには、教員を説得するしかなかった。 96年4月、父の義信(67)は校長と教頭、女子ソフトボール部顧問の畦地隆弘(49)の3人に頭を下げた。「もしも命を落とすようなことがあったら、親が責任を負う」 畦地らは家族の思いに押された。「やりすぎないように、みんなで気をつければいい」。西山本人の気持ちを優先した。 西山は、すぐにソフトボールに夢中になった。ただ、ランニング本塁打になる打球を放っても二塁や三塁で止まったり、練習の長距離走を控えたりした。自覚症状がなくても、突然倒れるかもしれない。主治医の石原淳の心配や、畦地らの好意は理解していた。自分で体調管理に努めながら、練習に励んだ。 ソフトボールが人生の明確な目標となったのは、96年夏。アトランタ五輪で、現・日本代表監督の斎藤春香(さいとうはるか)(39)が3打席連続本塁打を放った。テレビ中継にくぎ付けになった西山は、「斎藤のような素晴らしい選手になって、五輪の舞台に立とう」と心に決めた。
翌年秋、慶応大病院(東京都新宿区)での検査で、大動脈弁をはさむ左心室側と大動脈側の圧力差が60ミリ水銀柱に達した。弁置換手術の目安となる50ミリ水銀柱を超えた。西山は、「これで、やっとみんなと同じようにソフトボールができる」と喜んだ。
当時、弁は大きく分けて3種類あった。 機械弁は耐久性に優れ、再手術の必要がない。だが、血栓をできにくくするワーファリンという薬を飲み続けなければならない。この薬は妊娠中の胎児に与える影響や出産時のリスクが指摘されていた。また、スポーツでけがをすると血が止まりにくく、脳内出血の危険性も高くなるなどの問題があった。 ブタやウシの組織を使う異種生体弁は、薬は飲まなくていいが、寿命が短く、再手術をしなければならない。 最終的にホモグラフトと呼ばれる同種生体弁を選んだ。亡くなった人から提供された弁を冷凍保存したもので、米国の会社から取り寄せる。寿命は10〜15年とされ、異種生体弁より長い。大きさも十分あり、より円滑な血流が期待できた。 ただ手術は複雑で、リスクもある。しかし、西山は一度も、「怖い」とは言わなかった。手術日は98年1月に決まった。=敬称略

日本リーグの試合で=埼玉県戸田市
神奈川県では毎年1月上旬、各校から数人ずつ選ばれた中学2年のソフトボール選手が、地元の実業団チーム、日立ソフトウェアの選手の指導を受ける。 98年、大動脈弁の置換手術を数週間後に控えた西山麗(25)は、手伝いで参加した。 昼だった。グラウンドの横で見ていた西山に斎藤春香(39)が歩み寄り、声をかけてきた。96年のアトランタ五輪の本塁打王で、西山があこがれていた選手だった。
「絶対、ソフトボールができるようになるからね。将来、一緒に頑張ろう」
握手とサインもしてくれた。西山はうれしさと緊張とで顔が赤くなり、何も言えず、笑顔で応えるのが精いっぱいだった。
斎藤は午前中、西山のことを聞き、自分の小学3年のころを思い出した。ネフローゼ症候群で3カ月入院。尿に多量のたんぱくが出て、体がむくんだ。「一生、運動はできないかもしれない」と告げられた。
だが、中学で治り、五輪にも行けた。西山にも可能性があることを伝えたかった。 勇気づけられた西山は1月下旬、慶応大病院心臓血管外科の饗庭了(あえばりょう)の執刀で手術を受けた。交通事故死した米国の14歳の女の子から提供された弁だった。
手術の間、父の義信(67)と母の美千子(みちこ)(58)は、ソフトを続けさせるかどうかを話し合った。美千子はもともと運動に反対だった。義信は妻の心配は十分理解したが、「麗の気持ちを尊重しよう」と言った。 義信はベッドの西山に話しかけた。
「スポーツをするためでなく、普通の生活をするために手術をした。危険なことがあったら、やっぱりすぐ死んでしまうんだよ」
西山は答えた。
「グラウンドで死ぬのは怖くない」
この子の夢は、親が考えている以上に大きい、と義信は感じた。「じゃあ、頑張りな」
黙って聞いていた美千子は、帰宅途中、義信を「鬼」と怒ったが、美千子自身も西山の情熱を抑えつけることはしなかった。 約1カ月の入院だった。病棟で、西山は様々な病気と闘う子どもたちを見た。手術で治る自分は恵まれていると感じた。 「自分が元気になって五輪に行けば、病気の子どもたちの励みになる」 決意を胸に秘め、才能を開花させていく。=敬称略

父の義信さんが営む釣り船店には西山の写真が飾られている=神奈川県横須賀市
西山麗(25)は99年4月、神奈川県立厚木商高に進んだ。98年に高校3冠(選抜、高校総体、国体)を果たした強豪だった。監督の利根川勇(とねがわいさむ)(62)=現・日体大女子ソフトボール部監督=も、大動脈弁置換手術の成功を聞いて、西山を勧誘した。
西山は山田恵里(やまだえり)=現・日立ソフトウェア=とともに、すぐに正選手の座をつかんだ。内野手として、打球が飛んでくる方向を読む能力にたけていた。最初はやや軽めだったが、まもなくほかの選手とほぼ同じ練習をこなすようになった。1年夏の高校総体準優勝に貢献。2、3年では山田と交互に主将を務め、2年連続で、選抜と高校総体を制した。 西山は、才能があっただけではない。
利根川は言う。「つらかった時期を乗り越えてきたから、人の痛みを常にわかっていた。みんなで力を合わせ、協力しようという雰囲気を出せる選手だった」 家から学校までは2時間半かかったため、先輩の家に下宿した。試合中、相手選手と衝突し、途中退場したこともあった。手術後も体の不安はあったはずだが、両親も、利根川も、弱音を吐くのを聞いたことがない。
「体調が悪くなれば、迷惑をかける。自分の体を冷静に判断し、対応しながらやれる大人の考えを持っていた。精神的な強さがあった」と利根川。父の義信(67)も「病気でつらいと言ったら、もうやらせてもらえない、という思いがあったのだろう」と言う。
02年春に高校を卒業すると、あこがれの斎藤春香(39)のいる地元の日立ソフトウェアに入った。斎藤が入社当初につけていた背番号「3」をもらった。斎藤から技術を学ぼうと、いろいろ質問した。 だが98年1月、中学2年の時に声をかけてもらったことはだまっていた。 04年、斎藤は選手兼任の監督に就任した。それからまもなく、試合で西山が体を強打した。 幸い、大事にはならなかったが、数日後、西山の両親がグラウンドを訪ねてきた。斎藤が以前サインをした、西山のウインドブレーカーや色紙を持っていた。 斎藤は思い出した。ほおを赤く染めた女の子の笑顔が、西山と一致した。 「あの時の子だったんだ」 ソフトボールにかける西山の思いの深さを知り、涙が止まらなかった。=敬称略

北京五輪の3位決定戦でサヨナラ安打を放った
04年、ソフトボールの実業団チーム日立ソフトウェアの監督に就任した斎藤春香(39)は、西山麗(25)の両親の訪問を受けた。 数日後、西山に体調をたずねた。 「両親はすごく心配するけれど、私はそんなに心配していないんですよ」 いつもの笑顔で答えた。 西山は周囲に心配をかけないようにしている。そのぶん、自分自身で細心の注意を払ってきた。「疲労感が出てくるのは、ほかの人より早いかもしれない。でも、練習時間などで、うまく調整させてもらっている」
大動脈弁置換手術後の激しいスポーツが、弁の寿命にどんな影響を与えるのか。データはなく、専門家にもわからない。 西山は、海外遠征の前などに主治医の石原淳を訪れ、体調を入念に管理するようにした。病気との闘いを糧にもしながら、05年以降は不動の日本代表に成長した。
06年12月に日本代表監督となった斎藤は、言う。「大好きなソフトボールができるから幸せ、と本当に明るい。調子が悪くても、いつもニコニコ。悩んでいる選手を見つければ、自然に駆け寄って声をかける。陰のリーダーシップを発揮してくれる」
斎藤は北京五輪の前、子どものころにネフローゼ症候群を克服した自身の体験を西山に伝えた。それまでほとんど人に話さなかったが、西山のさらなる飛躍に期待を込めた。
08年8月8日、北京五輪が開幕した。1次リーグ初戦の豪州戦で、西山はチーム初安打を放った。「監督のために」。3点先取のきっかけをつくり、チームを勢いに乗せた。
決勝トーナメント3位決定戦。再び豪州に勝てば決勝進出だが、負ければ銅メダルが決まる試合だ。延長12回の死闘は、西山がサヨナラ安打で勝敗を決めた。
21日の決勝の相手は、3連覇中の米国。西山はエースの上野由岐子(うえのゆきこ)(26)=ルネサステクノロジ=を守備でもり立てた。試合終了の瞬間、涙を流して仲間と抱き合い、金メダルを胸にした表彰台で、笑顔を振りまいた。
だが、世界一という結果に喜ぶよりも、先に思ったことがあった。「五輪の舞台に立ち、全力でプレーしたところを多くの人に見てもらえた。それがうれしかった」
支えてくれる人たちがいなければ、ソフトボールは続けられなかった。次は自分が金メダルをかける番だった。=敬称略

金メダルを手にした日本代表チーム=林敏行撮影
08年8月。北京五輪で金メダルを手にしたソフトボール選手の西山麗(25)の視線の先には、監督の斎藤春香(39)がいた。 表彰式が終わると、だれよりも先にそばに駆け寄った。選手以外はメダルがないことを知っていた。「ありがとうございます」
96年のアトランタ五輪で活躍する斎藤を見なければ、いま自分がこの舞台に立つことはなかった。目にいっぱい涙をためて、笑顔で金メダルを斎藤の首にかけた。
球場の外では、日本から応援に来た家族や友人が待っていた。 西山は走り寄り、メダルを手に取ろうとする父の義信(67)に「金メダルはかけてもらうもの」と言って笑った。心配で、子どものころから試合をよく見に来てくれた母の美千子(58)、中学時代の恩師、畦地隆弘(49)……。順々にメダルをかけた。 帰国後は、主治医の石原淳や、高校時代の恩師の利根川勇(62)らを訪ねた。
だれもが、西山がソフトボールをするのをやめさせることができた。それでも見守ってくれたことが、西山には心の支えだった。 だから、すべての人に感謝している。 たとえば、「石原先生は『激しい運動はだめ』と言っても、私がすることはわかっていた。普通は、だめと言ったらだめなのに、私の気持ちを尊重してくれた」。
ソフトボールは北京を最後に、五輪種目から外れた。西山自身も、弁の寿命が尽きれば再手術を受けなければいけない。
それでも、五輪後も、第一線に立ち続けることを選んだ。 いまは日本代表で副キャプテンを務める。 ソフトボールにあこがれる子どもたちがいる。五輪種目への復帰を目指すにはソフトボールの火を絶やすわけにはいかない。日立ソフトウェアのチームの一員として、日本リーグ優勝という夢も追い続けている。
西山の元には五輪後、心臓に病気を持つ子どもや家族から多くの手紙が届いている。 斎藤は言う。「彼女は、1分1秒、悔いの残らないように大切にプレーしている。だから、夢や感動を与えられる」
義信も思う。「体のことは心配だけれど、夢や勇気をまだ伝え切れていないかもしれない。それなら、やれるだけやってほしい」
西山の戦いは終わらない。=敬称略
(由利英明)
にしやま・れい 84年、神奈川県生まれ。中学1年からソフトボールを始め、県立厚木商で2年連続高校2冠。卒業後に日立ソフトウェアに入社。日本代表に選ばれ、08年北京五輪で金メダルを獲得した。